会長挨拶 私が涙目テールクラウン RS41が好きになった理由


涙目テール  このホームページの作者であり、トヨペットRS40クラブ代表である私がなぜこの車が好きになったのか、それを最も皆様に知っていただきたくご挨拶を兼ねページの始めにかきました。先ず涙目テールとは、最初期生産(昭和37年10月から38年8月まで)のモデルの愛称で、テールランプが丸型でバックランプが三日月形である事から涙を流す目に見えることから涙目テールと呼ばれるようになりました。
 そんな車が好きになったのが私が4歳だった、昭和52年の春頃でした。某所に掘っ立て小屋のようなガレージがあり、其の隣に廃車置場があり、涙目テールのRS41他10数台の廃車がありました。このほか気に入ったのが、初期型のコロナRT40デラックスと東京の日本交通タクシーのRS40型(丸テール、38年9月〜40年6月までのスタンダードタイプ)がありこれらも気に入りました。(タクシーは後に私の母校のかってあった自動車運転講習会の教材車であることが判明)

第13回CLASSIC CAR REVIEW NIHONKAIにて
表彰対象が22もあるため、受賞者全員が並ぶと、写真のように壮観だ。
Nostalgic Hero(ノスタルジック・ヒーロー)Vol.106より抜粋(2004年10月号 芸文社
※第13回CLASSIC CAR REVIEW NIHONKAIにて

 通常4歳のガキッチョがこんなところで遊ぶと追い払われるものだが、ガレージの主は「坊やはそんなにポンコツが好きか?中に入って遊びな。」と云い破損 した危ない部品を取ってくれました。ガレージの主は映画評論家故水野晴夫氏に良く似た人でガレージにあるテレビでよくルパンV世を見、放送が終わる頃は、 夕日がきれいな時間で廃車がとても綺麗に夕日に照らされてました。水野氏と良く似たヤードの主、夕日に照らされ美しいRS41の姿、よく見たルパンV世そ んな環境下ですごしたのもあり、金曜ロードショーの夕日とトヨットハーバー
のあの映像そして、フライデーファンタジーあの曲が強く結びつきます。
 私が車好きに、そして涙目テールRS41に30年以上ドップリはまり込むきっかけとなったガレージですが、昭和57年以降主に会っておらず、今日に至っ ておりますが、ガレージと廃車は残っておりました。その後もヤードにあるRS41を見ては悦に浸って居たが、昭和がそろそろ終わりに入ろうとした、昭和 63年11月57年以降草でボウボウであったヤードが綺麗になっており様子が変わってました。もしかしていよいよなくなるか・・・・?と思ったが数ヵ月後 の平成元年3月15日一晩のうちに1台残らず無くなりその時旧車に絶対乗ると決心しました。初めて見た4歳の時、我が家のマイカーは昭和47年式のカロー ラKE20デラックスでした。黒一色のナイロンビニールシートしか見たことのないガキの目にRS41やRT40デラックスは美しいホーンリング、柔らかい ふぁブリックシート、コラムシフトに感動。更に後ろのナンバープレートを倒して給油する方式に「カッコいい!」と思い、こんな車僕は一生働いても乗れない なぁと思いました。カローラのオーナーである親父(故人)はホワイトリボンが大嫌いで新車で買いすぐホワイトリボンを処分。りボンなしタイヤにしたので初 めて見たホワイトリボンに私はゾッコンでした。
 そんな訳でRS41一本ではなく、コロナRT40等も乗りたい1台でした。決定的になったのが、高校生の時。この時初めて古い車はメーカーから部品が入 手困難である事実をしりました。なんでも長年乗ったカローラ(初代)が部品がなく親がやむなく処分した。と云う話を聞き、部品確保の重要性を知り、どうし たら入るか?考えた結果、例えば日本クラシックカー協会等でやるニューイャーミーテイングで部品を手に入れると判りすぐに行動に出しました。平成2年の1 月の事でした。

63年式クラウンDX
63年式クラウンDX
会長(31歳 山形県天童市)
4歳の頃から憧れ続けて、98年にようやく購入できた。
1オーナーものでボディの状態は良かったが、バンパーなどのメッキ類はほとんどが部品取り車からの移植となった。
Nostalgic Hero(ノスタルジック・ヒーロー)Vol.106より抜粋(2004年10月号 芸文社

 この当時バブル景気全盛期でほどなくして60年代ブームが始まった頃でした。実は他にプリンス自動車工業のグロリアスーパー6の昭和39年モデルにゾッ コンでしたが、いざ会場に行くと高校生の小遣いでは到底買えぬ金額が提示され、あえなく諦めたが、クラウンは驚くような安さですぐこの車と決めました。又 クラウンは初代以外殆ど見向きされてませんでした。
 更に運転免許を取得する頃になると、当時のカタログにあった、オーバードライブの構造にゾッコンになりもはや涙目テール以外なしと考えました。昭和30 年代の国産車はどれも1940年代〜1950年代のアメ車の縮小版みたいな車であることは昭和史に強い興味を持って居り、知っていたが、そんな年代の車に はとても見えず、反面1速はノンシンクロ、ヒーターブロアーがボンネットルーム内にあり、1900ccと云う排気量などはいかにもこの時代らしく、そう云 う混沌とした所に魅力を感じ涙目テールのみと決めました。
 20歳になりRS40系のクラブ構想を考え、当時の構想にそって今のクラブが有ります。バブル景気全盛の頃RS40系は不人気ゆえ、先代モデルRS30 系のドナーとなった話はしばしば聞きました。いや、それ以前の1970年代もかなりRS40系が30系のドナーとなった話が多く、これではイカンと考え構 想したのです。そして広く40系の魅力を世間に伝えたいそう思い平成11年10月1日にクラブを立ち上げました。
 この当時はまだ私の車はレストア中で思うような活動は出来ませんでしたが、4年もの年数が掛かったがどうにか完成し、ここから本格始動。更にもっと広く 活動したいと考え、以前試験的にホームページをメンバーに作成していただいたが、今度は自分で頑張って作ろうと考え、この度立ち上げました。

 レストアが終わり実際に運転してみると想像以上現行車と大差ない走り、乗り心地を実感。其れこそ終戦時再起不能といわれた我が国がわずか10数年でよく ぞここまでのいい車を作ったト感動しました。開発リーダーの中村健也氏を始め車体、部品を作った人々の情熱が感じられます。この40系クラウン、マスター ラインを作った人々に敬意を表し、広くこの車の良さを伝え、後世に1台でも多く残す、伝えるが私の役目と考えております。
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クラウンエンブレム